2012.01.27 Friday
欠落が人の形を決めている
「欠落が人の形を決めている。天賦の才とは神に奪われたものに等しい。」
以前、実家へ行った時、弟とそんな話をしたというエントリを書いたことがあるのだけれど、発生学的には手に五本の指があると言うよりは、四つの隙間があるとした方が正しいのだそうで(森田真生氏のツイートより)、何か非常に納得させられるものがあった。
さらに、森田氏は、部分における制約がそれを含むより高い次元における自由を支えているという旨のツイートもしている。なんという卓見。つられて、宗教的に伝統的なメソッド、つまり、厳しい修行で悟りを得ようというような発想も、これはやはりあながち的外れでもないのではないか。そんなことを思わされた。
他にも、「何をしないことにするか、何をできなくするか、が自由を支えている」とのツイートがあり、思わず膝を打つ心地。以前、このブログに「何ができるか、から、何をして何をしないかへ」というようなテーマのエントリを書いたこともあるが、それにサポートを得たような気分になり、何やら嬉しい。(本人の感想です。)
最近思ったこと。お絵描きする時、光の表現(ハイライト)はブランクとして表す技法があるが、これも何やら哲学的に興味深い。
あと、今思ったが、イラストレーターさんのお絵描き動画などで、塗りの輪郭を消ゴムツールで形成していく技法を見たことがあるが、あれも欠落が形を決めている。
やはり絵というのは、すごい世界だな。ところで、小学校の国語の教科書などでは、ぶん:だれそれ、え:かれそれ、となっていて、文章に挿し絵が添えられていることがあって、一見、絵は文章の添え物のように見えるけれども、いや、編集者の意図としてはそれであっているのだろうけれども、逆の立場を考えて、絵の添え物としての文章というものを想像してみても、挿し絵ほどの存在感というか、役を演じるというか、用を為すというか、そういうことは敵わない気がしてしまう。と言うか、単なる無粋な邪魔物にしか、成り得ないのではないか。これはもう、絵と文章では、格が違うというようなことなのではないだろうか。
しかし、文字というものが、削ぎ落とせるものを極限まで削ぎ落とした絵であるとの解釈をするなら、その羅列によって世界の有り様の再構成を試みているのが文章であると言えるだろう。言語もまた、欠落の申し子というわけだ。だとすれば、言語を持つことが人を人たらしめている一要素である(だよね?)ことも、何やら納得がいく。
言語などという無粋で使いづらい、制約だらけのものを用いることによってのみ至れる地平もあるということかもしれない。おおっ、これは文章による一発逆転が成ったのか!?(何の勝負だよ)
この辺りの話は、「ない」を「ある」にする力、人の想像力=創造力、人の神懸かったところ、といったような、俺の「幻想」に関する言説とも通ずるところがあって興味深い。
しかし、なんだかんだ言っても、すべては般若心経あたりに書かれていることの焼き直しに過ぎないような気がして、落胆を予感してしまう。先人の通った道の先を歩むことは、俺の人生では敵わないのだろうか。いや、普通に考えて、無理なんですけどね。でも、夢想はする。今まで誰も歩まなかった道に足跡を残し、後進の標となることを。そこを辿り、子孫が更なる地平へと至るための、礎となることを。
唐突だけど、二次嫁とかまだ甘いよね。その先には文字嫁が待ってるんだぜ。
以前、実家へ行った時、弟とそんな話をしたというエントリを書いたことがあるのだけれど、発生学的には手に五本の指があると言うよりは、四つの隙間があるとした方が正しいのだそうで(森田真生氏のツイートより)、何か非常に納得させられるものがあった。
さらに、森田氏は、部分における制約がそれを含むより高い次元における自由を支えているという旨のツイートもしている。なんという卓見。つられて、宗教的に伝統的なメソッド、つまり、厳しい修行で悟りを得ようというような発想も、これはやはりあながち的外れでもないのではないか。そんなことを思わされた。
他にも、「何をしないことにするか、何をできなくするか、が自由を支えている」とのツイートがあり、思わず膝を打つ心地。以前、このブログに「何ができるか、から、何をして何をしないかへ」というようなテーマのエントリを書いたこともあるが、それにサポートを得たような気分になり、何やら嬉しい。(本人の感想です。)
最近思ったこと。お絵描きする時、光の表現(ハイライト)はブランクとして表す技法があるが、これも何やら哲学的に興味深い。
あと、今思ったが、イラストレーターさんのお絵描き動画などで、塗りの輪郭を消ゴムツールで形成していく技法を見たことがあるが、あれも欠落が形を決めている。
やはり絵というのは、すごい世界だな。ところで、小学校の国語の教科書などでは、ぶん:だれそれ、え:かれそれ、となっていて、文章に挿し絵が添えられていることがあって、一見、絵は文章の添え物のように見えるけれども、いや、編集者の意図としてはそれであっているのだろうけれども、逆の立場を考えて、絵の添え物としての文章というものを想像してみても、挿し絵ほどの存在感というか、役を演じるというか、用を為すというか、そういうことは敵わない気がしてしまう。と言うか、単なる無粋な邪魔物にしか、成り得ないのではないか。これはもう、絵と文章では、格が違うというようなことなのではないだろうか。
しかし、文字というものが、削ぎ落とせるものを極限まで削ぎ落とした絵であるとの解釈をするなら、その羅列によって世界の有り様の再構成を試みているのが文章であると言えるだろう。言語もまた、欠落の申し子というわけだ。だとすれば、言語を持つことが人を人たらしめている一要素である(だよね?)ことも、何やら納得がいく。
言語などという無粋で使いづらい、制約だらけのものを用いることによってのみ至れる地平もあるということかもしれない。おおっ、これは文章による一発逆転が成ったのか!?(何の勝負だよ)
この辺りの話は、「ない」を「ある」にする力、人の想像力=創造力、人の神懸かったところ、といったような、俺の「幻想」に関する言説とも通ずるところがあって興味深い。
しかし、なんだかんだ言っても、すべては般若心経あたりに書かれていることの焼き直しに過ぎないような気がして、落胆を予感してしまう。先人の通った道の先を歩むことは、俺の人生では敵わないのだろうか。いや、普通に考えて、無理なんですけどね。でも、夢想はする。今まで誰も歩まなかった道に足跡を残し、後進の標となることを。そこを辿り、子孫が更なる地平へと至るための、礎となることを。
唐突だけど、二次嫁とかまだ甘いよね。その先には文字嫁が待ってるんだぜ。

